このインド人が凄い

喪失の国、日本―インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」 (文春文庫)

喪失の国、日本―インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」 (文春文庫)

 ようやく読み終わり。これは面白い。

 予想していなかった答に、彼は「では、あなただったらどんなテーマ・パークを作りますか」と尋ねてきた。
「私だったら、予定地をそのままに留め置きますよ」
 私はすでに、日本の村の美しさをいくらか知っていたのである。坂本氏が車で郊外に連れ出してくれたからだ。古い日本の風景が、急速な勢いで破壊されつつあることも聞き及んでいた。
「留め置いて、それでどうするのです」
 男は訊いた。
「いやなに、そのままにするのですよ。村を現時点で凍結するだけです。川も、池も、林も、藁葺きの家も、道も、電柱も、何もかもそのままにして、メンテナンスだけを続けるのです。農業の仕方もそのままです。
 そしてそこに住む人に給料を払うのです。彼らの仕事は1992*1年の生活を営み続けることで、家の内部の見えない部分については限定つきで改造していい。閉園後は新時代の生活を楽しんでいい。しかし仕事中は1992年を生き続ける。従業村民が多過ぎて充分な給料を支払えないなら、村税を割り引くとかの優遇措置をとるのです。お年寄りや子どもなどは大喜びですよ」

 じっさい日本では、この情況とリンクするようにコンピュータ・ゲーム機フィーバーが起きている。大人から子どもたちにまで流行しているこのゲームを、花見の席で知り合った貿易会社部長の稲田氏の部下に誘われてやってみた結果では、他人を蹴落として自分が生き残ることをよしとするサバイバル・ゲームで、じつに殺伐としたものである。

(中略)

 あまりにも平和だが、かといって幸福ではないために、生きている感覚を掴みにくくなった人たちが、死や、恐怖や、愛や、幸福といった、人生において最も価値あるものを「遊び」にしはじめたのであろうか。
 もしそうならば、近未来において、愛や憎しみさえもゲーム機の中に登場し、人びとはリスクを負うことのない擬似的な世界で恋愛や結婚や育児や離婚の感情を楽しむようになるかもしれない。

 シャルマさんマジ慧眼
 殺伐としたゲームが何なのか思い浮かぶがタイトルが思い出せない*2んだけど、所謂ムービーや勝手に喋るイベントだけで進むゲームというのは、この殺伐性を心理的に和らげる為のものだと思った。だから猪場が無限ループでラーメンを食い続けるというエンディングばかりが忘れられない。関係あるのか。
 でも、所謂ライフシムはアメリカ経由であると一応記しておく。ワーネバとか、日本人はUOでやたら家を持ちたがるとかはあるけども、RPG要素を入れなければウケなかったと言えるだろう。あるいは、育つ=アイドル・スポーツ選手・俺好みの娘・憧れのあの子の眼鏡に適うステータスetcになるという単目的系シム。
 偶然日付が今日になったと同時に録画を始めたNスペ再放送がある。一部で話題を呼んだインド特集2だが、その中に、豆だかオクラだかを笑顔でビニール袋にわんさか詰めるご婦人の姿があってめまいを覚えた。まるで、シャルマ氏が見たバブル期の東京のスーパーマーケットなのである。

 彼女はまず私を野菜売り場に連れていった。そこには信じられないくらい多種多様な野菜が、小さなプラスチック袋に小分けされて美しく飾られていた。ネギは葉先を切り落としてあり、見事な大根は二つ切りにして、半分ずつラッピングされていた。袋に入っていないものはまずなかった。オクラは例外で、小さな網袋に、高価な万年筆を並べたように整然と入れられていた。
 なんといってもおどろいたのは、キャベツもニンジンもキュウリもナスも、染み一つなく、ぴかぴかに輝いていたことである。どの野菜も工場で作った製品のように形と大きさが統一され、まるでプラスチック製品のように見えた。どういうふうに栽培するとそうなるのか、私にはわからなかった。

 決定的な違いは個別包装がないことか。
 幸か不幸か、シャルマ氏の危惧した事態は既に到来してしまったのだ。毎シーズン新作の出る高価な衣服、エステの広告。それらは驚くべきことに、氏のような上位カーストや富豪ではなく、中流階級をターゲットにしているのである。
 しかも事態はさらに斜め上を亜音速で飛行しているようだ。スラムのすぐ側に建つモール。以前多分amazonのおすすめだったか、貧困層をターゲットにした商売が次世代を制す的な煽りの付いたビジネス書があって、セシールの5000円スーツを連想したのだが…つまり、苦しい生活から這い上がる契機を与えれば消費が伸びるというwin-win関係的なものを想像していたのだが…これはゲロ以下の臭いがプンプンする自由経済ですね。これはひどいこれはひどい。何回でも言うぜ。そりゃ辺境に引き篭もるわ。
 でも一方で思った。シャルマ氏のその後の暮らしも、身分か資本主義的な何かかは知らないが、スラムの人々には到底持ちようもない何かに支えられているがゆえに可能なのである。いくら狼の眼差しに気付こうと、最貧層の人々に出来るのは、モールでチョコレートを買うぐらいなのである。この醜悪極まりない事態は、ただ欧米から胞子の如く風に流されてやってきた訳ではない。日本人のそれと同様、インドならではの価値観・歴史・精神性を背景に持っているのである。だからこそ、氏は辺境に引き篭もる以外に策無しと考えたのだろうが。核衝突のようにカタストロフィックではないが、ただ底が無いだけとも言える。
 己の中に潜んだカースト意識の醜さに気付く瞬間、消え行く日本への愛惜、もう一つの努力の世界。行きのバスで非モテに関して考えを巡らせていて、恋愛資本主義に空虚さを感じながらも過剰な性(男性)/消費(女性)から降りられない人たちの事に思い至った。恋愛幻想を拒むと、社会から疎外されてしまう故である。同様に、シャルマ氏もカーストや経済活動、知的エリートとしての生から降りることが出来ない。結局フェティッシュとしての金の強さには敵わないというだけの、あんまり新しくもなければ面白くもない話になりそうだけども。
 あと、砂漠の只中にあって緑の溢れた庭を造ったのは、やはり緑に満ち溢れた温暖湿潤気候の世界に魅せられたからなんだろうか。

*1:引用者註: 原文では年号は漢字

*2:でもファミコンか初期アーケード作品なので違うかも