モテの、モテることによる、モテるための人生

http://anond.hatelabo.jp/20070215124036
 結論から言うと、恋愛から逃げることは自分が所属する社会から逃げることに等しい。

行きのバスで非モテに関して考えを巡らせていて、恋愛資本主義に空虚さを感じながらも過剰な性(男性)/消費(女性)から降りられない人たちの事に思い至った。恋愛幻想を拒むと、社会から疎外されてしまう故である。同様に、シャルマ氏もカーストや経済活動、知的エリートとしての生から降りることが出来ない。結局フェティッシュとしての金の強さには敵わないというだけの、あんまり新しくもなければ面白くもない話になりそうだけども。

このインド人がすごい

 もうすこし詳しく書く。
 恋愛資本主義的な世界観において性や経済活動における拘束が薄まったとき、女性に残るのは消費行動であるという考え、つまり消費フェミニズムの男性版は何か。子作り・パートナーシップ・扶養の責任から解放された男性の性愛、それは性の過剰ではないだろうか。つまり、恋愛資本主義商業戦略は男性に対しては性衝動を煽っているのではないか。
 何故女性において恋愛と消費が強く結びつくのかというと、それは結局未だに経済的弱者であるからである。男を捕まえて養わせないと、人並みの暮らしが出来ない。性は金に換わる。経済性と恋愛プレイヤーであることが結びつき、恋愛市場から降りられなくなる。この、恋愛市場主義と恋愛資本主義が連結する瞬間の男性版が、やはり先程述べた過大な性衝動のイメージが出没する辺りにも見出される。多分。例えばサラリーマン文化近辺。ビジネスマン向けコミック誌に頻出する(気がする)変なエロ漫画、上に引用したエントリで感想を書いた喪失の国、日本―インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」 (文春文庫)にも出てくる、接待における性産業の利用。英雄色を好む的な何とかとか(オッサンの歴史好きと結びついている)、或いは逆に、性的節制で成功するとか。女性の性と違ってダイレクトに金で置き換えられないが、裏返せば、女性のように美醜やら何やらで分かりやすく値切られないし、お得感や割高感も持ちにくい。女性におけるモテ服やら愛されメイクやらが実際そんなに男受けしないように、童貞だとか包茎だとか早漏だとか小さいとかも女性からすれば相当どうでもいい、と。
 つまり、下品で短絡的な言い方をすると、成人雑誌やAV見ながらひっそりオナるか、女の子とキャッキャウフフするかだけが「成熟した」「真っ当な」大人の時間の過ごし方なのである。男子の場合な。後者の場合、場合によっては電話かファミレスでだべるぐらいで済むので経済的である。どっちがより社会的に受け入れられてるかというとこっちだろうし。やっぱモテないと損だ! という話。
 あるいは、そうして性的に駆り立てられることに距離を置きたくなっても、他にすべきことがないのである。金も力も全て性欲の解消を志向しているのだ。増田に誰か書いてたよね、普通に女子と付き合えるし童貞も捨てたしオナニーするぐらい性欲あるけど、何かに違和感だか空虚さを感じてやまないっていう。
 上のシャルマ氏の場合、ヒンズー教徒なんだからガンジス川のほとりで苦行でも積めばいいじゃんと一瞬誰しも考える。が、氏からすれば、ああいう行者こそインド精神文化の偽善の体現者なのである。曰く、観光客や権力者に媚びて生活していると。それと同じようなことが、恋愛資本主義的世界観でも見られる。悪い男や古い価値観から自由になったと考える女性が、結局無為におされライフスタイルに金をつぎ込まされがちなように、悪い女や男の義務から逃れたはずの男性も、結局生身から2次元・素人から玄人に貢ぐ対象が変わっただけで 糸冬 了 ということになりがちである。しかし、矛盾に気付いた所で他に楽しいことはないという。