モジュール知と連合

 それはともかく、ここでいう頭のよさは大半id:torly:20070805#1186317490でいうところの知識ではないか。教え方も知識、(何を)|(どこまで)教えれば割り算が可能になるかもメタ知識だから知識。
 知識は大概階層的である。知識の複雑さや包括っぷりの大きさに応じて、知識を把握するための沢山の知識、知識間の関連を論じる段はどんどこ増えることなるだろう。ゆえに、論じる知識が複雑になればなるほど、読み飛ばしたり必要な前提知識が足りなかったり、あるいは前に読んだ段を忘れたり誤解したりするなどして、理解にてこずる可能性はどんどん増える。違う視点から言えば、専門的知識を得るというのは、全く新しい事を知るより、むしろ複雑だったり巨大だったりする知識の塊をひとまとまりにしたパッケージを知っているという事の方が大きな比重を占めているように見える。実際専門書などを見ても、大概の分野で多かれ少なかれそうなっている。

よく言われることだが、新たな数学理論の発見とは、わかりやすい概念や記号法を発明することといっても過言ではない。一番わかりやすいのが「未知数をxなど文字で置き換える」というものだろう。これによって、古代エジプト古代ギリシャの賢者大勢を悩ませた問題も、中学生の練習問題に早変わりする。しかし一方で、多くの賢人を悩ませた問題を少数の記号やキーワードに集約するのだから、そもそもそんなものを簡単に説明できる方がおかしい。中学校あたりから数学が途端に難しくなるのはこのためだ。

とある元エセ数学屋のぶつくさ

 心理学や脳の本だと高速で読めるのに専門のはずの情報工学の本に凄く時間が掛かるのは何故か、もちろん数値計算に踏み入らない分野で。それは心理学の本を一杯読んで、既にモジュール知とでも言うべきものを身に付けているからです…というのを2、3年前に考えたけど、最近読んだCommunication with Alien Intelligenceに似たようなことが書かれていた。ほらほら、ミンスキーも知識のモジュール化による再利用が複雑なことを理解するのに重要と言っています。ちなみにこれは1985年に発表された文章らしい。ミンスキーに負けた。
 ここまで読んで、元の議論(頭の良い女子中学生)とは全く関係ないので無視されていたが、今回の議論では重要な事柄があることに気付いただろうか。別に気付いてなくてもいいんだけども。それは知識と知識の間の結びつきで、かつて先人たちが観念連合という言葉で言い表そうとしていたものである。

 これはウィッシュリストに入っている(=読んでない)本の一冊なんだけど、交通事故で頭部に外傷を負い、記憶喪失になった男性の手記である。以前テレビでやっていたので他に見た人もいるかもしれない。この記憶喪失というのがよくフィクションに出てくるアレではなく本格的なやつで、例えば「筒状になった金属の蓋が開くと、白いつやつやしたものが並んで湯気が出ている。何だろう?(うろ覚え)*1」といった具合なのである。このフレーズを聞いた時には「すごいや、観念連合の障害は実在したんだ!!」といたく感動した。しかし、観念連合の障害として知られるブロイラーの4Aとは似ても似つかない。統合失調症と精神分裂症、両方の名前の由来なのに。マジで困る。
 私の苦悩はともかくとして、この青年は他にも日常で様々な困難にぶつかる事になる。大学に復帰したが、文字の知識からして抜け落ちている。講義に出ても板書を図形のように写す事しか出来ない。母親が泣いていても、涙と表情を悲しみの表出として認識できない。服を脱いで風呂に入るように教えても、冷水になるまでじっと浸かっている。
 最後の1エピソードは知識というより、時間・目的・適切さの問題に見えるが、それも多くの人の脳においては知識の繋がりのようなものとして実装されているということなのだろう。この目的及び適切さと「健全な脳」の問題は、鉄腕アトムと晋平君―ロボット研究の進化と自閉症児の発達で触れられていたうどん調理の興味深い話を連想させる。

 知的障害のあるまさる君の役割は、他の仲間が作ってくれたうどんの中に、ネギを切って入れるという仕事。障害の重さを考慮して先生が決めた「最も簡単な作業」でした。先生の考えていた「ネギを切ってうどんに入れる」ための作業時間は、5分*2。ところが実際には、「ネギを切ってうどんに入れる」のに30分以上かかってしまいました。そのときの様子を、担当の先生はこう話します。

 まさか「ネギを切ってうどんに入れる」という作業がそんなにも難しいとは、思ってもみませんでした。本当に、5分もあれば十分だと信じ切っていました。
 ところがまさる君は、一片ごとに包丁をネギの上にのせて「ここを切っていいのか?」とでもいうように私の顔を見ます。そこで「切っていいよ」と言うと、ようやく切ることができるのです。さらに困ったことに、その切ったネギをうどんの中に入れるときにも、なかなか入れることができません。直径20センチ位のドンブリのどこの位置に、その一片のネギを入れたらよいのかわからないのです。いろいろと「あっちに入れようか、こっちに入れようか」と迷っていますので、適当なところで私が「そこでいいよ」と言ってやると、それでも不安そうな顔をしながら指に摘んでいたネギを離します。

鉄腕アトムと晋平君 PP.8-9

 知識そのものより知識の連合が大事というと、理論的には不確かな勘や感性での推量が何か知らんけど凄く大事に見えるという経験を考えてもらえると納得できるかもしれない。
 また、ソマティックマーカー説に代表されるように、脳はメタに判断を検討しているという考えがある。それを鑑みると、論理の見た目はソリッドな演繹の集まりでも結局脳の理解判定はベイジアンだかパーセプトロンだかでニューロでファジーな感じにモデル化されるものにすぎないんだよ!!! Ω ΩΩ<な、なんだってー!!*3
 故に、知識を完全に分け与えることが出来たとして、「正しい」という感覚を同じ程度に持ってもらうことは困難を極めるのではないだろうか。結局数こなして時間かけることが神経を活性化させることになるヨ!! と脳トレ商法の人も言っています。でも結局知識そのものの学習は必須ということで、俗流脳トレの理論的意義もまた危うくなる訳だが。
 また、そうして脳の神経フィルタの閾値が理解・目的・適切さの落としどころを作っていると考えると、気分障害セロトニン仮説はもちろん、天才と分裂病の進化論で論じられた説と古典的な統合失調症陰性症状寄りの訴えがもっともらしく結びつく。気がする。何となく。ソマティックマーカー的に。

*1:ちなみに炊けた白米のことらしい。

*2:引用元では漢数字。以下同様

*3:それでも理工系の勉強をしていると、自分の支持する方面と真反対の方に掘ったアレが正しいと理解できてしまうという体験があるので、ファジーじゃない回路を脳に築くことも全く不可能ではないと思う。多分。