生音のある生活

g:fragments:id:yabu_kyu:20081024:1224860802
 やや飛躍するけど、殆どの先進国で音楽と踊りが一番アドレナリンとかドーパミンとかが出る娯楽の主役でなくなって久しいのではないかと思った。それより金を増やしたり、会社を大きくしたり、ゲームやったりうまいもの食ったりする方が効率よくテンションが上がる、と。
 それを言えば、何が美味しいものであるかがまさしく文化的学習によって、誤解を恐れずに言えば貧しさで定義されるんじゃないか。教育されると言うべきか。例えばやたら何にでもヨーグルトを使う食文化も、あの辺りではこうすれば一番アミノ酸を効率よく摂取することが出来て、なおかつ水分も補給できると考えれば理解できる。世界中の料理が食べられる現代日本人の感覚で、単に味だけを考えるから理解不能なんだと思った。
 味覚で選ぶといえば、アプリオリな至上の美味を定義しつつ、人生のある時点までに功夫の足りない輩には永遠に理解し得ないとする魯山人的な美食論に違和感を覚える人は多いのではないかと思われる。いや、実際に魯山人アプリオリな美味を前提としていたかどうかは知らんけど。じゃあ脳内魯山人で。ともかく、美味の理解が「学習」を必要とすることはほかならぬ魯山人自身の経歴が証明している。先ほどまでの理屈に沿えば、10歳で丁稚奉公に出る厳しい生活が彼の食への感覚を研ぎ澄ましたのだろう。では、やはりアプリオリに優れた音楽がライブハウスで我々の消費を待っているなどということはく、音楽の消費にまつわるコストのあれこれとの相互作用の末、相対的にそれなりのニッチに落ち着いたと見るべきなのだろうか。
 でも、魯山人的なるものは我々にもう一つの道を示しているのかもしれない。多くの人が脳内魯山人の美食エリーティズムにイラッとする一方で、人には自分の趣味の分野でプチ魯山人をやっているのではないか? ジャンルの全てに跨る普遍的な価値(ゲーム性!)を賛美しつつ、それを理解しない他者を設定して見下すという態度が娯楽語りに併発しない方法を探せば、劇的に間口が広まるのかもしれない。単に語らないだけでなく、新参者の脳内で勝手に脳内魯山人が語りださないようにしないといけないので、相当高度な演出が必要になりそうではある。そうすると結局ロートルと新参の年功序列的権力関係の解体がそれ系の話題に取って代わる(という正真正銘の無知な新参者には全然楽しめない状況)か。

2009年はさらなる飛躍の年にしたいです

 メタ魯山人的手法(ヨーグルトの消費を伸ばすには水分と血中アミノ酸濃度を求めてる人にヨーグルトを食わせればいいじゃない)に基づき、打ち切り派遣労働者コミュニティ発の空前の生音ブームが!! というビジョンを受信した。
 でもそれだと(キャラ的な意味での)はてサ臭が過ぎるというか、熱湯欲の人が「生音ブームの○○は極左団体の幹部と会ってる」とかblogに書いてみたり、保守づいた若者が背を向けたりしてあんまりもりあがらなそう。