微分の前提知識

 氏の言動に対する得体の知れない感情を割と建設的な方向に昇華、させつつ「このままじゃ中井先生がソーカルっちゃう><俺の大学時代の数少ない楽しい思い出が!! 汚される!!」という思いを何とかする為に、中井氏の微分的認知発言を理解するために必要な前提知識だか何だかをぶちまけようと思います。糸井氏はどうだか知らない。
まとめ: g:fragments:id:setofuumi:20070507:p1

常識知らずの人生

 まずこれは、分裂症*1の議論であったことをはっきりさせねばなりません。検索してみると色々見つかりますが、丁度これがそれっぽいので参考まで。
http://homepage3.nifty.com/yamato-ryuuu/page056.html
 ところで私はg:fragments:id:kt_kyoto:20070504:1178277495で引かれている山形氏の文章を見たとき、てっきり分裂症の話かと思いました。

だいたい、バカでもわかるように作られている最低のハリウッド映画すら話がわからんという人は、実際の世界の支離滅裂な現実の中でどういう生き方をしているんだろうか。僕が想像するに、それはなんか巨大なお化け屋敷の中にいるようなもので、次から次へと何の脈絡もなく変なお化けが出てくるのを、その場その場でやりすごそうとしてひたすら縮こまっているような、とっても怖い人生を送ってるんじゃないだろうか。

 ここに書かれているのはまさしく、ブランケンブルクがアンネ・ラウの症例を通じて語った自明性の不在ではないでしょうか。
自明性の喪失:みすず書房

自明性の喪失―分裂病の現象学

自明性の喪失―分裂病の現象学

 ブランケンブルクは、この書で取り挙げた患者アンネ・ラウについて、「《あたりまえ》(Selbstverstaendlichkeit)ということが彼女にはわからなかった」(13)と述べる。アンネ自身に語らせると、こうである。「私に欠けているのは何なんでしょう。ほんのちょっとしたこと、ほんとにおかしなこと、大切なこと、それがなければ生きていけないようなこと……。……私に欠けているのは、きっと自然な自明さ(natuerliche Selbstverstaendlichkeit) ということなのでしょう。……私に欠けているのは、きっと、私にとってわかっていることが、ほかの人たちとのつきあいの中ででも -- ごくあたりまえに -- わかっているという点なのです。それが私にはできなんです。」

http://www.hss.shizuoka.ac.jp/shakai/ningen/hamauzu/kukanron10.htm

 少なくとも私はそう思いました。多分、この前後に分裂症への言及があるのだとも。ところがしばらくしてから、奇跡的にも該当文章のもっと長い引用を目にする機会に恵まれます。それがこれ。
id:kagami:20070429#p1

でもぼくはそうは思わない。さっきも言った通り、そういう子(何も知らない子)たち
みんな、とっても不安そうだもの。かれらだって、せっかくお金を払っているんだし、
もうちと観ている映画がわかりたいだろう。ガールフレンドにももっと自信を持って
説明できるようになりたいだろう。無理矢理二時間に渡って、意識して笑い声を
たて続けるのは疲れるだろうに。理解できない絵の具のかたまりを観にお金を
払うより、もっともっと確信を持って、いい絵とつまらない絵を区別したいだろう。

そしてテンペストの女の子(芝居好きというので、
山形さんがテンペストに誘ったら、テンペストについて何も知らなかった女の子。
山形さんはその子のことが好きだったが、教養知性の驚くべき欠如に幻滅した)
はといえば……まあ、彼女についてはあまり多くを語るまいよ。
でも、ぼくはきみの文化水準を信じていたのにな。まあいいや。
………
「すなお」「自由な感性」では話にならない。ご存知だろうか。目の見えなかった
人が手術などで目が見えるようになったとき、かれらは「見る」ことができない。
なんか変なパターンを知覚しているけれど、これが財布でこれが携帯電話で
これが本でこれが家族の顔、という識別はまったくできない。「すなお」で「自由」
な感性は、実はまったくすなおでも自由でもない。見るのも聞くのも感じるのも、
すべてなんらかの訓練と教育と知識ベース/教養があって可能になるものなのだ。

 教養史上主義なんてファッキン、若者は無知で充分! むしろ歓迎すベッキーという奴らがいるけどそんなことないよ、教養ないと人生つまんねーし大変だろーというお話だったのです。分裂症のぶの字も無い。
 でもやっぱり、病気マニアだと何でも病理学とか何とかに聞こえてしまいます。特に最後の一文なんか、アール・ブリュ流行りと精神疾患俗流幻想を語ってるっぽい。s|訓練と教育と知識ベース/教養|正常な精神機能|みたいな。そしてやっぱり、なんか巨大なお化け屋敷の中にいるようなもので、次から次へと何の脈絡もなく変なお化けが出てくるのを、その場その場でやりすごそうとしてひたすら縮こまっているような、とっても怖い人生というのは、分裂症的な人=微分回路的認知から離れられない人々の世界観を表わすのにとっても適切な比喩に見えるのです。少なくとも、私の理解した微分回路的認知はこれでした。

そして私達は知らねばならぬ

 どちらかというと、ここで述べられているのがより本来的ですか。

田中 中井久夫さんは「微分回路的世界、積分回路的世界、比例回路的世界」の違いについてもおっしゃっているのですが、いわゆる我々が世界と思っているのは、比例回路的世界、つまりある感覚的な強度を対数に変換して知覚するので、10倍の強度でも2倍程度にしか感じない。それに対して統合失調症の人などの微分回路的世界というのは、微細な差異を過剰に感じ取ることによって、何かが起こるという不安な未来予想をしてしまうんです。積分的回路世界というのは、症例的にはうつ病になる性格ですけれども、自分の過去のすべてにアクセスしながら出来事を感知していく。

http://www.surfcom.jp/shop/randomtalk/03index.html

 どっちかというと、数学よりは回路とフィルタの比喩というのが正解だと思われます。アナログ回路の面倒さは異常。ちなみに中井氏は箱庭療法の研究でも有名です。
 あのあたかも教養のようなもの、アンネ・ラウの言うところの「自然な自明さ」とは何なんでしょう? というのが精神医学者の一部でホットな論点だった時代がありました。ある時中井氏が一石を投じます。教養(仮)がないんじゃないんだよ! つまり分裂症患者は過敏なだけだったんだ!! Ω ΩΩ<な、なんだってー!! あるいは教養(仮)がないのを、微分的認知で補おうとしてしまって、それがうっかり可能になってしまったのかもしれない。あなたは時空を超えて我々の前に何度立ちはだかるんだ…教養(仮)! どっちが結論だったか、あるいはジンテーゼとして回路の比喩が出てきたのかは忘れた。

まあつまりお前ら原文嫁と

 マルコ氏は多分自分が天才言いたいだけで何とかレメディぐらい薄い話しかしてないし、私のは色々他の知識とごっちゃになったり細部が曖昧だったりするので、詳しく検討したい感心な貴方は原文を当たるがいいです。
 うちの大学は医学や心理学と全然関係ない科ばっかりでしたが、何故か図書館には中井氏の著作がこんもりありました。多分どこの大学でも、ちょっと図書館の気が効いていれば置いてあるかもしれません。無かったらリクエストしてみましょう。待ちきれない人は買いましょう。幸いマーケットプレイスにも出品してるみたいだし。

分裂病と人類 (UP選書 221)

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精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

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 ただしどれに詳しく載ってたか忘れたという酷いオチ。